マウントジーンズ那須を振り返る

索道レポート

2026/5/28
マウントジーンズ那須を振り返る


ハイライト

ポストバブルの名残,そして終幕。マウントジーンズ那須を振り返ります。

[目次]
1.はじめに▼
2.ゴンドラ路線図▼
3.最盛期のコースマップ▼
4.第1ゴンドラの消滅▼
5.第2ゴンドラの消滅▼

1. はじめに

マウントジーンズ那須スキー場は,2024年3月10日を最後に閉場し,現在では施設の撤去もされているスキー場です。1994年の開業以来,およそ30年にわたり那須エリアを代表するゲレンデとして親しまれてきました。近年は暖冬や少雪の影響も大きく,営業期間の短縮が続いていましたが,ついに歴史の幕を下ろしました。
そんなマウントジーンズを,今回は少し振り返ってみたいと思います。

2. NAPとは?

マウントジーンズは、東急リゾーツ&ステイ株式会社 が運営していたスキー場です。もっとも、開業当初から東急グループが運営していたわけではなく、東急による運営は2005年から始まっています。では、それ以前はどのような計画で開発されていたのでしょうか。その手掛かりとして意外に重要なのが、索道設備に残された「銘板」です。
ふとクワッドリフトの銘板を見ると、そこには現在の名称ではなく「NAPスキーリゾート」という表記が残されています。
「マウントジーンズなのに、なぜNAP?」
実は、この“NAP”こそが、計画初期の姿を探る大きなヒントになります。

さかのぼること1987年。
プラザ合意後の急速な円高不況を打開するため、政府は内需拡大策の一つとして「総合保養地域整備法」、いわゆる“リゾート法”を成立させました。当時は全国各地で大規模リゾート開発構想が立ち上がっていた時代で、スキー場やホテル、ゴルフ場を一体整備する巨大プロジェクトが次々と計画されていきます。そんな中、三重県・宮崎県・福島県に続き、4番目に承認されたのが、栃木県の「日光那須リゾートライン構想」でした。この構想は、那須から日光にかけての広大な観光エリアを一体的に整備するというもので、8つの重点整備地区が設けられ,その一つとして位置付けられていたのが「那須プレリー重点整備地区」です。
そして、この“那須プレリー”地区の中心施設として整備されたのが、後のマウントジーンズ那須でした。ここで、以前触れたクワッドリフトの銘板に刻まれていた「NAP(那須プレリー)スキーリゾート」という名称につながります。

2. 当初の計画

那須プレリーの整備方針は,「広大なプレリーに遊ぶ牧場体験リゾート」を掲げ,那須高原に広がる牧場地帯を活かした“体験型・学習型リゾート”として計画されていました。観光だけではなく,酪農や自然との触れ合いを前面に押し出した構想であり,当時の那須町でも「牧場を中心とした,これまでとは一味違うリゾート開発」として期待を集めていました。酪農不況に悩まされていた地域にとっても,新たな観光需要を呼び込む起爆剤になるのではないか――そんな期待感が地元には広がっていたといいます。計画では,一期工事としてロープウェイ(ゴンドラ),草スキー場,体験型牧場,畜産博物館などを整備し,那須の自然や酪農文化を楽しみながら学べる施設をつくる予定でした。そして二期工事では,ホテルやプールなどの滞在型施設を整備し,およそ10年をかけて一大リゾートを完成させる壮大な構想だったのです。
そして1989年には起工式も行われ,いよいよ牧場を核とした一期工事が始まる……はずでした。
しかし,実際に優先して具体化していったのは,スキー場開発でした。
1989年,「中大倉山スキー場(仮称)」開発事業に関する土地利用の事前協議書が栃木県へ提出されます。この時点で,那須プレリー構想の中心が,牧場リゾートではなくスキー場開発へ大きく傾いていたことが明らかになっていきます。本来主役となるはずだった牧場体験型施設は後回しとなり,開発の前面に出てきたのは,大規模ゲレンデや索道施設を中心とした典型的なリゾート開発でした。
当時はまさにバブル経済の真っ只中。各地で似たようなスキー場やリゾート施設が次々と計画され,地域性,酪農文化を活かすという理念よりも,短期間で集客と利益を狙えるスキー場開発が優先された姿は,まさに“バブルらしい金太郎飴方式の開発”だったとも言えるでしょう。
結果として,「牧場体験リゾート」という当初構想は徐々に存在感を失い,那須プレリーはスキー場主体のリゾートへと姿を変えていくことになります。